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古事記☆新解釈【15】高天原は地下にある!?~大地を愛した古代日本人/古代日本に星神信仰はない~

古事記☆新解釈「高天原は◯◯にある!」アイキャッチ 新解釈『古事記』
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本日のトーク内容

以下の内容は、放送内容を加筆修正しています。

皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。

これまで五回に渡って、火の神カグツチの殺害に関するお話をしてきました。今日は、これまでのシーンを通して私が感じた、高天原たかあまはらの印象についてお話したいと思います。

これまでのおさらい

カグツチ殺害に至るまでの展開を簡単におさらいすると、イザナキとイザナミは天の御柱を廻ることによって、たくさんの島と神を生みました。そんな中、火の神カグツチを生んだとき、イザナミは陰を焼き病に臥せってしまいました。イザナミのもがき苦しむ状態が、原始の地球に地熱エネルギーをもたらし、また、イザナミの吐瀉物などの排泄物は、泥火山や熱水の噴出となってこの世界に現れた、と私は考えています。

そして、残念ながら、イザナミは死んでしまい、イザナキは悲しみと怒りのあまり、最愛の妻を死に至らしめた子、カグツチの首を斬って殺してしまいました。そのとき飛び散ったカグツチの血が、イザナキの刀に付着することによって、溶岩流や雷に関する神々が生まれました。それは、原始の地球に大噴火が起こったということを象徴した出来事だと思われます。

イザナキとイザナミが死に別れてしまったというのは、とても悲しい出来事ではありますが、原始の地球にとっては、生命が誕生するために必須な化学的進化でもあったと私は考えています。

こういった考えは、北欧神話の巨人ユミルや中国の盤古神話などで語られる、大地母神の遺体が世界のあらゆるものを創造したという話と照らし合わせながら考えました。この大地母神の神話、そしてカグツチ誕生と殺害のシーンを考察していた当時、私の中にふとある疑問が浮かんだんです。それは、「高天原は本当に天空の世界にあるのだろうか?」と。

高天原について

高天原への疑問

日の出

高天原は、天つ神、そして神世七代がいる世界で、その領域から世界が創造されていくという、とても神聖で崇高な神の領域です。そこを私たちは高天原、「高い天の原」という言葉の印象から、人間には絶対うかがい知ることのできない、高いたかい天空の世界のことだと思ってきました。

でも、カグツチのシーンを考察していて私は思ったんです。イザナミがもがき苦しむことで地熱エネルギーが生まれ、カグツチ殺害によって大噴火が起こったとするならば、私たちが住む世界は地球内部から創造されてはいないだろうかと。地球内部から創造されているとするならば、高天原もそっちの方向にないとおかしくないか?と私は思ったんです。

ですから私は、高天原は天空にある領域ではなく、地球内部の方向に位置する領域が高天原なのではないだろうかと思ったんです。これまでの認識とは真逆の視点です。これはあくまでも私の仮説ではありますが、でも、じつはその仮説を裏づける話もいくつかあるんですよね。

女神信仰をしていた古代日本人

土偶

まず、ユング派の河合隼雄先生や、神話学者で学習院大学名誉教授でもある吉田敦彦先生の話を参考にすると、日本はもともと女神信仰、つまり大地を信仰してきた民族だったと言われています。

縄文の土偶や土器は大地母神を表していて、縄文人たちがそれを粉々に割って大地に撒いていたのは、大地母神の遺体の各パーツから新しい命が誕生するという信仰を持っていたからだと考えられています。まさに『古事記』で描かれている世界観とまったく同じことを、古代日本人は信仰として行っていたということ。その信仰は、大地母神の犠牲によって自分たちは命を授かること、そして命を繋ぐことができること、そういったことへの感謝の気持ちを表現したものだと私は思うんです。

また、日本史学者の秋田ひろさんの書籍『ものと人間の文化史 井戸』には、とても興味深いことが書かれていました。

「現在われわれが井戸とよんでいるものを、昔は堀井戸という人が多かった。その人たちの間では、井戸とは掘らない井戸で、湧き水のあるところ、地下水の露頭部を少し削り、掘りくぼめた程度のものをさしていた」。そして、「『井戸』は深く、地下他界のカミにより近いという意味では、祭祀的性格がより強いと考えられる」と。

井戸は弥生時代前期においては、その深さは浅く、祭祀的要素も希薄だったそうです。しかし、弥生時代中期になると、次第に深いこう(穴)が作られはじめ、数も増えていったそうです。秋田さんはその状況を通して、「弥生時代前期以降、人びとは何かに衝き動かされるように穴を掘り、その穴に土器や木器、炭、灰を投入するのである」と。そして結論として、「日本人は、カミは地下に住み、井戸や便所など中空(空洞)なるものを通路にしてこの世に現れたり地下に戻ったりするという地下他界観念を基層信仰していた」とおっしゃっていました。

natan
natan

『古事記』に描かれている高天原も、まさに秋田さんの見解と一緒なんです。高天原は地下にある!

地下他界観念

竪穴式住居

なぜ、弥生時代中期に祭祀用の井戸、土坑の数が増え、その穴の深さもどんどん深くなっていったのかというと、これは私の推測ではありますが、縄文時代において人間は神々ととても距離が近かったのだと思われます。人間が困ったら、神々はすぐ助言をくれたりしたのだと思います。

心理学者ジュリアン・ジェインズは書籍『神々の沈黙』の中で、人間の意識はたった3000年前に誕生したばかりで、それ以前の古代人は右脳で神の声を聞き取り、その指示に従って行動していたと話していました。心が神と自分の二つに分かれているということ、これをジェインズは「二分心」と呼んでいます。私は、縄文人たちもこの二分心を持っていたのではと思ったんです。

しかし、弥生時代に入って、人間に意識が芽生えると同時に、少しずつ神々との距離が遠くなり、最終的にはその声を聞くことができなくなってしまった。だから、地面に穴を掘って、神々が住む地下世界に近づき、その声を聞き取ろうとしたのかもしれない。

神話以外でも、密教における理想郷伝説の一つに「シャンバラ伝説」というものがあり、そのシャンバラは山の中の洞窟や地底にあると言われています。私はそういった世界が物理的にあるとは思っていませんが、そういった発想自体が生まれる根底には、古代人たちが持っていた大地信仰、女神信仰があったからだと考えています。

古代日本に星神信仰は無い

また、古代日本人が大地を信仰していたことに関連して、秋田さんの書籍の中で、民俗学者の佐野賢治さんの興味深いお話が掲載されていました。

佐野さんは、「我が国には体系的星神信仰が存在しないこと、その欠如の理由等を考えることは日本人の世界観、自然観の一端を明らかにする方法となるであろうが、逆に日本での星神信仰は体系的な中国の星神信仰が宗教者によって民間に沈下して行く、一方的な過程と捉えてもよいことを示唆している」と。そのことを通して秋田さんは、「古代人は星や月や太陽に無関心であった」と結論づけていました。

これを読んだとき、私はスッキリとした気持ちになりました。私も、古代日本人は、天空を見上げて星を観察していたとは思えなかったからです。古代日本人は、上ではなく、下を見ていたはずだと。大地に耳を近づけ、大地の声、ぬくもり、匂い、感触を捉えていたはずだと。

だから、あまてらすおほかみは太陽神、月読つくよみのみことは月の神と、たしかに名前の印象、そして使われている漢字から神に星のイメージを重ねてしまいますが、たぶん、これも本当は星のことを言ってはいないと思うんです。

古代日本人の信仰に寄り添うなら、太陽のように明るいものとは何か、月のように暗い中でほのかな明るさを与えてくれるもの、けれどときに真っ暗闇をもたらすもの、それは何かと、太陽と月が象徴しているものは何なのかを考えることが、正しい『古事記』の理解なのだと私は思うんです。

太陽神が乗る船もそうです。これまでの『古事記』解説では、それが天鳥船だと言われてきたわけですが、私の考察結果では、それは太陽神の船ではなく、火おこし器であり、また製鉄用の炉でもあるということがわかりました。星のことは一切語られていないんです。だから、本当の『古事記』の世界観は、意識を星から大地に戻したときようやく理解できることなのだと私は考えています。

なぜ日本人は菌と仲良しなのか

みそ

さて、大地信仰に話を戻すと、大地は構造性を持っていて、地層は地球の年齢を表す年輪のようなものです。地層の一番上は土の世界です。土の世界には、人間が知らないたくさんの生き物が住んでいます。代表的なのは菌類ですね。

なぜ日本はたくさんの発酵食品を生み出すことができたのか、なぜ日本が世界に類を見ない発酵大国になったのかというと、そこには土の声、菌たちの声を聞き取ってきた古代日本人の大地信仰が精神の根っこにあったからだと私は思うんです。日本人は菌と仲良しだと言われています。菌と仲良くなれたのは、古代日本人が真摯に大地と向き合い、その声を聞き取ってきたからだと思うんです。

なぜ巨石を信仰するのか

岩

また、古代日本人の信仰に関連した話でいうと、日本には巨石信仰というものがあり、それは岩そのものを神、もしくは神が宿る、神が座る場所として信仰するというものです。

その巨石信仰も地球内部の構造で考えてみると、岩石で構成されたマントル領域は地球のより深い部分に位置していて、それは言い換えると、岩石とは地球を生み出した古い神々を象徴したもの。だから、地上に露出した岩石を神そのものとして、古代人は信仰していたのではないでしょうか。

それもこれも秋田さんの言葉を借りると、古代日本人は地下他界観念を持っていたからであり、『古事記』においても、高天原は地下世界の中心的領域だからなのかもしれない。

古代日本人を正しく理解するのであれば、彼らは大地そのものに広大な宇宙を感じ取っていたはずです。菌が作り出す世界は銀河系にそっくりです。菌の生態も、まだまだわからないことだらけ。まさに未知の生物、宇宙人そのものです。

以上のことから、古代日本人が神と崇めていたものは、星ではなく、そして人間として存在する誰かでもなく、大地や自然そのもののことだった。もっと言えば、地球それ自体を構成する全てのものを八百万の神と呼んで信仰していたと私は思います。

もしかしたら、日本だけでなく、世界にある神話も、もともとは星ではなく、大地を主人公にした話だったのかもしれないなと私は思うんです。でも、いつしか人間は自分たちの延長線上に神を見るようになってしまった。だから、神を天空に見るようになった。それが大地信仰から星神信仰へ変わっていった理由だと私は考えます。

神と人間は反転している

本当の古代の信仰はその逆です。神は地下にいると信じられていたんです。絵にするとわかるように、神と人間は大地を堺にして、お互い反転しているんです。反転しているからこそ、神々の苦しみによって人間は恩恵を得ることができるんです。そのことを知っていて、感謝していたのが古代人たち。

高天原と人間の関係性について

今は誰もそんなこと思わないですよね。神は喜んで私たちに愛を与えてくれると思っている。全然そんなことないと思います。苦しんだ末に、結果的に与える形になったのだと私は思います。

お母さんがお腹を痛めて自分を産んでくれたこと。それは、イザナミが死をもって世界に新しい命をもたらしてくれたことと本質は一緒だと思うんです。イザナミの苦しみが命をもたらすということ。そして、イザナキの悲しみの涙が大地を潤してくれたことは、神の悲しみを人間は恩恵として受け取るということ。そういったことを古代人たちは知っていたからこそ、女神信仰が生まれたのだと私は思うんです。それは心からの、心からの、感謝の信仰なのだと思います。

神と人間は反転しています。この反転を真に理解することが、正しい『古事記』の理解、そして世界に伝わる神話を正しく理解することに繋がると考えます。

人間の延長線上に神がいるのではなく、神は足の裏の方向にいるということ。自分が空高く舞い上がろうとすればするほど、大地からは遠ざかってしまいます。だから、自分の足元をよく見ること。それは心理学的に言えば、自分の現実、そして自分の弱さをよく見るということ。すべての真実は足元にあるからです。

ジブリ作品で語られる大地の尊さ

ジブリの宮崎駿監督は、作品の中で、何度も何度も、大地の大切さについて語っています。『風の谷のナウシカ』でナウシカは、「きれいな水と土では腐海の木々も毒を出さないと分かったの。」「汚れているのは土なんです!」「腐海の木々は人間が汚したこの世界をきれいにするために生まれてきたの。」「大地の毒素を取り込んで、きれいな結晶にしてから死んで砂になっていくんだわ。」と語っています。

そして、大地を痛め続ける人間に対してオウムが反乱を起こしたとき、傷ついた子どものオウムに対してナウシカが、「ごめんね。許してなんて言えないよね。ひどすぎるよね」と、人類の身勝手な行動を泣きながら謝罪するシーンは、とても心が痛くなります。

ナウシカ

また、『天空の城ラピュタ』では、シータが「ラピュタがなぜ滅びたのか、私よくわかるの。ゴンドアの谷の詩にあるもの。『土に根を下ろし 風と共に生きよう 種と共に冬を越え 鳥と共に春を歌おう』。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」と。

ラピュタ

宮崎駿監督がずっと訴え続けてきたのは、大地の尊さ、自然の大切さです。「その大地、森、海、土、植物、動物、昆虫を、ちゃんと感じて考えろ」というメッセージが込められていると私は思っています。

土壌とは、命の循環が行われる土のことを言います。大地の上で賢明に生きた命は、死んだら大地に戻り、そして新たな命となってまた大地の上に戻ってきます。

現在、土壌破壊が行われているということは、言い換えれば、あらゆる命が消えていってしまっているということでもあると思います。人間の命も、動植物そして菌の命も。最終的には神々の命でさえも。人間が土や大地への関心を無くしているということは、命への関心を無くしてしまっているということであり、それは自分の命にさえも無関心になっているということでもあると思います。土壌破壊が進んでしまうと、戻れる命も戻れなくなってしまいます。

このことは深層心理学的に言えば、現代人は外の世界における自分の地位や他者からの視線、評価ばかりを気にするあまり、自分の身体と心が疎かになり、その心の状態が今、土壌破壊として目の前に映し出されているということになります。大地と人間の心は、裏表の反転関係を持っているからです。反転関係とは、鏡に映すような関係にあるということ。『古事記』でも、葦原中国のことを「うつし世」と表現します。だから、外の世界で自然破壊が起こっているその根本原因は、人間の心が自然破壊を起こしている点にあります。

そのことに気づかせるために、ジブリ作品は大地の大切さを伝え続けているのだと私は思っています。だから『古事記』そしてジブリ作品は、世界を真逆に捉えないと理解できない話なんですね。そういったことから私は、宮崎駿監督のジブリ作品は現代版の神話だなと感じています。

聞くことの大切さ

さて、ここからは今日最後のお話として、現代日本人は大地や心に対する関心をなくしているとお話しましたが、そういった中でも古来より忘れていない日本人の精神性についてのお話をして、今日のお話を終えたいと思います。

『古事記』内において、神々は「聞くこと」を重視するのですが、なぜ聞くことを重視するのかが、今、少しだけわかるような気がします。一番最初に天孫降臨する予定だったオシホミミも名前に「耳」を持ちますし、スサノヲのヤマタノオロチ退治を手助けしたあしづちも、後にいなのみやぬし須賀すが八耳やつみみのかみという名を与えられたり、神武天皇もまつりごとを聞くための場所を求めたりしています。聞くことは国を治めることだと言われていますが、それは決して支配することを意味してはいないと思います。

今日の話の流れで言えば、古代日本人が大地からの声を聞き取ろうとしていたことと関係があるかもしれません。未知の相手を知るためには、まずは聞く姿勢が大事。決して、聞くことを通して相手を支配しようとするのではなく、相手をよく知った上で折り合いをつけようとしている。それこそが、神代から続く日本人の精神性の一つなのだと私は思うんです。

日本人は争うこと、そして自己主張することを嫌います。海外からはそれを消極的なこととして捉えられているようですが、でもその行動の根底には、まずは相手の話を聞こうとする態度があるからなのではないでしょうか。そこから考えるに、たぶん、神と人間は世界が反転してはいるけれど、精神性だけは反転していないのかもしれません。だから、『古事記』に物理的な事実を求めるのではなく、日本人の精神性を見つけることが重要なのだと私は思いました。

ということで、今日のお話は以上になります。高天原は地下にあり、神々も地下にいるということ。この話が、神と人間の関係をもう一度見直し、この先私たちは世界や自然に対してどういう意識を持って向き合い、どう行動していけばいいのかを考える一つのきっかけになればいいなと思っています。

natan
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それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!

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