本日のトーク内容
皆さんこんにちは、natanです。さあ、始まりました「ろじろじラジオチャンネル」。本日もよろしくお願いします。
しばらくお休みをいただいていましたが、今日から心機一転!アマテラスとスサノヲのうけひ、からの天岩屋戸シーンの解説に入りたいと思います。
まずはいつものように、読み下し文、現代語訳を読み上げます。声をもって訓む部分は赤字で表記し、特殊な訓読みは原文の横に訓み方を記載しています。トーク内容のチャプター一覧、参考文献はチャンネル概要欄に記載しています。
原文/読み下し文/現代語訳
これから読み上げる部分は、スサノヲが父イザナキに、「死んだお母さんの国、根の堅州国に行きたい」と伝えたら、「それならば、お前はここにいてはならん」と言われ、追い払われたシーンの続きになります。それでは読み上げます。
故於是速須佐之男命言 然者請天照大御神將罷
乃參上天時 山川悉動 國土皆震
故ここに速すさの男命言ひしく、「然らば天照大御神に請して罷らむ」といひて、すなわち天に参上る時、山川悉に動み、國土皆震りき。
さて速須佐の男命は「それならば天照大御神にお願いして根の堅州国へ行こう」と言って、天に上った。そのとき、山と川はみな鳴動し、大地はすべて震えた。
尒天照大御神聞驚而詔 我那勢命之上來由者 必不善心 欲奪我國耳
旣解御髮 纏御美豆羅而 乃於左右御美豆羅 亦於御縵 亦於左右御手 各纏持八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠而 曾毘良迩者 負千入[能理]之靫 比良迩者 附五百入之靫 亦所取佩伊都之竹鞆而 弓腹振立而 堅庭者 於向股蹈那豆美 如沫雪蹶散而 伊都之男建蹈建而待問 何故上來
尒して天照大御神聞き驚きて詔りたまひしく「我がなせ命の上り来る由は、必ず善き心ならじ。我が國を奪はむと欲ふにこそあれ」とのりたまひて、すなはち御髪を解きて、御みづらに纏きて、すなはち左右の御みづらにも、また御縵にも、また左右の御手にも、各八尺勾璁の五百津のみすまるの珠を纏き持ちて、そびらには千入の靫を負ひ、ひらには五百入の靫を附け、またいつの竹鞆を取り佩ばして、弓腹振り立てて、堅庭は向股に踏みなづみ、沫雪如す蹶散かして、いつの男建踏み建びて待ち問ひたまひしく「何故上り来つる」ととひたまひき。
すると天照大御神は大地の鳴動を聞いて驚き、「我が弟が上ってくる理由は、必ず善い心ではあるまい。我が国を奪うつもりなのだ」と仰って、髪を解いてみづらに結い直し、左右のみづらにも、髪飾りにも、左右の手にも、大きな勾玉をたくさん連ねた玉飾りを巻きつけ、背中には千本の矢が入る靫を背負い、腹には五百本入りの靫をつけ、また竹鞆を取りつけ、弓の腹を振り立てて、堅い地面に股まで踏み入れ、庭を沫雪のようにとことん蹴り散らかして、雄叫びを上げながら須佐の男命を待ち構えて「何故上ってきた」とお尋ねになった。
尒速須佐之男命答白 僕者無邪心 唯大御神之命以 問賜僕之哭伊佐知流之事 故白都良久 僕欲往妣國以哭 尒大御神詔 汝者不可在此國而 神夜良比夜良比賜 故以爲請將罷往之狀參上耳 無異心
尒天照大御神詔 然者汝心之淸明 何以知
於是速須佐之男命答白 各宇氣比而生子
尒して速すさの男命答へ白ししく、「僕は邪き心無し。ただ大御神の命もちて、僕が哭きいさちる事を問ひたまへり。故白しつらく『僕は妣の国に往かむと欲ひて哭くなり』とまをしつ。尒して大御神詔りたまひしく『汝はこの国に在るべからず』とのりたまひて、神やらひやらひたまへり。故罷り往かむ状を請さむと以為ひてこそ参上りつれ。異心無し」とまをしき。
尒して天照大御神詔りたまひしく、「然らば汝の心の清く明きは何して知らむ」とのりたまひき。
ここに速すさの男命答へ白ししく「各うけひて子生まむ」とまをしき。
これに対して須佐の男命が申すことには、「僕には邪心はありません。ただ(伊邪那岐)大御神に僕が泣きわめく理由を問われたので、申しづらかったのですが、『僕は亡くなった母の国に行きたいと思って泣いています』と答えました。すると大御神は、『お前はこの国にいてはいけない』と仰って、私は追い払われました。ですから、母の国に行く心状をお許しいただこうと思って参上しただけです。他に意図はありません」と答えた。それを聞いた天照大御神は、「ではお前の心に邪心がないことをどのようにして知ればよいか」とお尋ねになったので、須佐の男命は「お互いにうけひを通して子を生みましょう」と答えた。
解説
今日のテーマ
これが今日取り上げるシーンです。そして、今日お話するテーマはこちら。古事記の「音をもって訓む」言葉を通してこのシーンを読み解いてみよう!です。
今回のシーンは、これまで古事記が散りばめてきた「音をもって訓む」言葉(原文と読み下し文では赤字で表記している言葉)が、どのような働きをもって機能しているかがよくわかるシーンとなっています。「音をもって訓む」言葉の取り扱い方がわかると、物語が伝えたいことが見えてくるので、今日は「音をもって訓む」言葉に注目しながら、物語の内容を読み解いていきたいと思います。
大地が激しく揺れた理由
まずはじめに、イザナキに追い払われたスサノヲは、「お父さんがダメなら、姉であるアマテラスにお願いをして根の堅州国へ行こう」と思い立ち、アマテラスがいる高天原に上っていきました。
高天原に上るとき、山や川が大きな音を立て、大地がものすごく揺れたとのことですが、これは一体なぜなのでしょうか?私が考えるに、彼はまぜる神でもあるので、高天原には竜巻のようなものを起こして上っていったのかもしれないなと思いました。
その他に、スサノヲが持つ生物学的特徴も大きく関係していると思っていて。その件については、現時点では情報が少なすぎてお話できないので、うけひやスサノヲが大暴れするシーンまで話が進んだとき改めて触れますね。ですから、今日は話を先に進めます。
「なせ命」が意味すること
世界がごごごー!と激しく揺れ動いたとき、それを聞いたアマテラスは驚いて、こう言います。「我が弟が上ってくる理由は、必ず善い心ではあるまい。我が国を奪うつもりなのだ」と。なぜアマテラスは、スサノヲが善い心を持っていないと判断したのでしょうか?
その疑問を解くヒントになるのが、先ほどお話しした「音をもって訓む」言葉です。この場面では、「我がなせ命」の「なせ命」が音をもって訓む言葉になっていて、この言葉の扱い方がわかると謎が解けます。
この「なせ命」という表現は、親しい相手に対して言う言葉で、これは過去のシーンでも使われていました。そのシーンはどこかというと、黄泉国です。イザナキが死んだ妻に会いに黄泉国へ赴き、御殿の戸を挟んで向かい合ったとき、イザナキがイザナミに対して「愛しき我がなに妹命」と呼びかけ、反対にイザナミはイザナキのことを「愛しき我がなせ命」と呼んでいました。
今回、アマテラスがスサノヲのことをわざわざ「なせ命」と呼んだのは、今回のシーンが黄泉国とリンクしていることを読者に伝えるためだと私は考えました。
黄泉国と今回のシーンをリンクさせて読むと、なぜアマテラスは、スサノヲが善い心を持たずに上がって来ると思ったのか、なぜ高天原を奪うつもりだと断言したのか、その理由が見えてきます。それは、「なせ命」という呼び方が初めて登場した黄泉国は、イザナキの隠された欲望や腹黒さを映し出した世界で、イザナキはイザナミを奪おうとして黄泉国を訪れていたからです。
だからアマテラスは、父と同じくスサノヲも良からぬ心を持って高天原に上ってくる、この国を奪うつもりだと判断したのだと思います。
このように、今日のテーマである「音をもって訓む」言葉は、「過去の場面をリンクさせながら読みなさい」という指示だと思っていただけると良いと思います。この「音をもって訓む」という指示は原文にしか書かれていないので、原文で古事記を読むことはとても大切です。
「なせ命」以外にも、「音をもって訓む」言葉はこれまでもたくさん出てきているので、古事記を読み進める中で、「あれ、この表現聞き覚えがあるな。たしか過去のあのシーンでも使われていたな」と気づいたときは、過去のシーンと今読んでいるシーンをリンクさせながら読むと、話の内容を正確につかむことができます。
というわけで、そんな感じでこの先のストーリーも読み進めてみましょう。
アマテラスの男装
アマテラスはいきなり武装をはじめます。髪をみづらに巻くということから推測するに、男装しているようです。みづらは、顔の両側に髪をひょうたん型にまとめるスタイルのことです。そして、左右のみづら、髪飾り、そして両手にも、大きな勾玉をたくさん連ねた玉飾り、通称「みすまるの珠」を巻きつけています。
この「みすまるの珠」は、勾玉という表現から連想するに、ヒスイに関係したものだと思われます。でも、神話を読む際は抽象的思考や象徴読みが大事なので、ヒスイでできた珠と解釈するのではなく、古事記解説第27回でお話したように、ヒスイは生と死の両方を象徴した宝石でもあるので、「みすまるの珠」は生命力、または何らかの命を象徴した珠と捉えると良いかなと思います。
さて、アマテラスの男装は思いの外かなり物々しい雰囲気で、背中には千本の矢、お腹には五百本の矢を備え、また「いつの竹鞆」の「鞆」とは、弓を射るとき、弦がはね返って腕に当たるのを防ぐために手首に結びつけるもので、弦があたれば音高く鳴り響き、矢をつがえなくてもその音で敵を威嚇することができるものだそうです。
それらを身につけ、弓を立て、足を堅い地面に股まで踏み入れ、土を蹴り散らして、雄叫びをあげながらスサノヲの到着を待ったとのことですが、ここまでする男装には、一体どんな意味が込められているのでしょうか?
「いつ」が意味すること
これも「音をもって訓む」言葉を考えてみると謎が解けます。ここでは「いつの竹鞆」「いつの男建」の「いつ」という言葉が音をもって訓む言葉になっていて、これが初登場したシーンとリンクさせれば良いということがわかります。
この「いつ」が初登場したシーンは、イザナキがカグツチを斬り殺した場面で、カグツチを殺めた刀の名前が「いつの尾羽張」でした。ですから、アマテラスの男装はカグツチ殺害シーンとリンクしているということになります。
イザナキはイザナミがカグツチを生んで死んでしまったため、その怒りと悲しみのあまり、カグツチの首を斬って殺してしまいました。だからきっと、アマテラスもイザナキ同様、怒っていたのだと思います。「私の国を奪うとは何事だ!許さん!!」みたいな感じで。それだけでなく、きっと大事なものを失うかもしれないという恐怖心もあったのかもしれないですね。
この竹鞆による大きな音での威嚇、そして地面を蹴散らすことと雄たけびを上げる行為は、カグツチを斬り殺したとき、大地に怒りの大噴火が起こった状況とまさにリンクするなと思います。
以上、ここまでの話をまとめると、今回のシーンを「音をもって訓む」言葉を通して考えてみると、スサノヲが高天原に上ってくることをアマテラスが良くないこととした理由は、スサノヲには蛮行を働いた父であるイザナキの要素が受け継がれていると認識しているから彼女は怒った、もしくはそこに恐怖を覚えた、ということだと思われます。
うけいとは
ですが、スサノヲは「僕には邪心はありません。根の堅州国に行くことに対して、お父さんの許可を得られなかったので、代わりに姉であるあなたに許可を得てから行こうと思って参上しただけです」と答えます。あらら、意外や意外。アマテラスの予想は外れたようです。
しかし、それを信用できないアマテラスは、「お前に邪心がないことを証明しなさい」と言い、「それでしたら、うけいを通してお互いが子を生むことで、その子の性質から私の清い心を証明しましょう」という話になります。
うけいというのは、占いのようなもので、神々にとってもどのような結果が出るのかわからないものだと私は考えています。うけいは、天神の占いが起源だと思われ、イザナキとイザナミが初めて国生みをしてヒルコが生まれてしまったとき、二神は天神に相談し、天神が占いの結果「女から声をかけたのが良くなかった。もう一度やり直しなさい」と助言をしました。
今回のアマテラスとスサノヲのうけいも、この天神の占いシーンを別の形で繰り返しているのだと思われます。イザナキとイザナミはやり方を間違えてヒルコを生み、そのヒルコはイザナキの幼児性、そして欲深さや傲慢さを象徴した存在でもありました。きっと、イザナキもそのような子が自分から生まれるとは思ってもいなかったことでしょう。
そして今回、スサノヲはそのどんな結果が生じるかわからない占いの性質を利用して、自分の心の清らかさを証明しようとしています。逆転の発想というやつですね。これを提案したスサノヲって、すごく賢いと思いませんか?頭が良いです。
また、「うけいを通して子を生みましょう」とスサノヲは言いましたが、イザナキとイザナミの国生みもそうなのですが、ここで言う「子ども」というのは象徴的な表現で、深層心理学的に言えば、それは自分の見えない心を可視化させたものだと私は考えています。自分にとって見えない心は、他者存在があって初めて可視化できます。それをスサノヲはアマテラスを通して行おうとしているのだと思われます。
これもまた、すごい腹がすわっているなと思います。私だったら、自分のドロドロした感情や欲望が出てきそうで、やりたくないですもん。きっと、スサノヲは真っ直ぐな瞳でアマテラスの目を見て、「邪心はありません。うけいを通して私の清らかな心を証明してみせましょう」と言ったのでしょうね。
父であるイザナキと似ているようで似ていない(笑)
いや~、カッコいいですね!
ちなみに余談ですが、古事記の中で私の一番大好きな神様がスサノヲです。
まとめ
ということで、最後にまとめです。今回のシーンはうけいを行うに至った背景を描いた場面となっているわけですが、「音をもって訓む」言葉とリンクする過去のシーンをたどっていくと、このような構造的展開になっていることがわかりました。
うけい前という今回のシーンから「なせ命」で黄泉国にワープ、「いつの竹鞆」「いつの男建」の「いつ」でカグツチ殺害シーンにワープ、最後に次回から触れるうけひで古事記最初の部分、天神の占いシーンへワープ。つまり、物語の構造が序盤まで戻る形になっているんですね。ということは、今回から始まる物語は、イザナキとイザナミの物語を、今度は子どもたちが違った形でもう一度最初から繰り返すということを意味しているのだと思われます。
また、ここからある重要な古事記の性質も読み取れます。それは、古事記は構造主義的性質を持っているということ。まあ、神話研究の大御所であるレヴィ=ストロースが、神話には目に見えない構造があって、それをベースに神話が構成されていることを発見し、そこから構造主義という思想が生まれたので、古事記も構造主義的なのは当たり前の話なのですが…。
でも、こうやって古事記が構造をベースにキレイに展開していることがわかると、古事記は人知を超えているなとしみじみ思います。まだまだ古事記にはたくさんの謎があるので、構造を通して一つずつ丁寧に読み解いていきながら、古事記の人知を超えた性質を多くの人に伝えていけたらいいなと思っています。
それでは今日はここまでです。
ご視聴いただきまして、ありがとうございました。
また次回もぜひ聴いてくださいね。
それではまたお会いしましょう!バイバイ!